Peace of moment
先が蜃気楼に霞むほどに果てのない広大な王家の領地の中に、そこだけ切り離されたようにひっそりとたたずむ西洋風の離宮。
野生のジャスミンに囲まれたこの離宮は、自然のままであるようでいて実は最高の技術で整えられている。たとえば庭の中央の噴水は陽を反射して七色の虹を絶えず作り出せるようにな
っているし、月が最も美しい姿で池に映るように配置されている。花々も自然の群生に見せるようにあえてそのように庭師が常に手を入れているのだ。
月にたった一度、一日だけ使われるそのためだけに、全てが最高の状態で仕上げられ用意されている。
「お目覚めですか。お食事をお持ちしました」
「ん・・・」
本宮の寝室と比べたら質素で小さなベッド。(それでもいわゆるキングサイズではあるのだが)身を起こしたこの国の王、トルーファは乱れた髪をかき上げぐいっと体を伸ばした。眠り の余韻を遮るように淡々と流れる国王付侍従長、マフの声。
「いつもながら休息日はこの離宮には使用人も出入り禁止ですので不自由をお掛けしますが、これも煩わしいことから解放されてゆっくりお休みいただくためのこととご容赦いただきたく」
「ああわかってるわかってる。今日は普段俺に付き合わされて文句も言えずに休みなく働かされる者達こそゆっくりと休む日だというのはわかってる。ところで?なぜそんな状況下でおまえだけが働いている?マフ?」
「私ですか」
「月に一度、加えて年に十日、こうして完全に仕事を忘れて休息するという決まり事を実質作ったのはおまえだ。しっかりと休むことでそれが翌日からの仕事にプラスになるのならと俺はそれを承認した。そして休むのなら徹底的に。俺に近く仕える者達もそろって休ませることを条件にと言った」
「その通りでございます。ありがたき王のお情けでございます」
「なのになぜおまえだけが普段通り俺の世話をしようとしている?法に反している」
「それは・・・そうですね、これは仕事ではなく、そう、趣味なのです」
「は?おまえは趣味で俺の世話をしていたのか」
「不心得でありましょうか」
「いや。呆れた。真面目な顔してなにが趣味だ。つまらない冗談は似合わないぞ」
真面目に申し上げましたという言い訳は信じてもらえないのはもう諦めている。マフの誰よりも熱い忠誠心はそれを表情に出せないという悲しい欠陥のためになかなか王には通じないのだ。幾分不本意ではあるがこれはもう仕方のないことなのでそれ以上は何も言わずマフは用意して来た朝食を広げた。
すべて自作。普段はけっして出されない庶民のメニューだ。自分で材料を調達していそいそと用意をする。他人のためにする料理は意外に楽しいものだった。確かに趣味の時間と言えなくもないのかもしれない。
決まった時間に食事ができないほどに忙しいのと、たまに時間があったとしても給仕ばかりに囲まれた一人の味気ない食卓を好まないのと、そんなことで最近はすっかり小食になっていた王を心配しているマフであるが、基本的に食べることが好きなトルーファはこのような形であれば喜んで手を出してくれるのでますます作り甲斐もあるというものなのだ。
かつてニューヨークの街角で食したジャンクフードが世界一美味しかったとぽつりとつぶやいたことを決して忘れなかったマフは、なんとかして差し上げたいという気持ちからこのようなレパートリーを身につけたのだ。
それに合うのかと言われると微妙なのではあるが、食後のジャスミン茶だけはとりあえず習慣なのでいつも通りの煎れ方で用意する。
朝一番の摘みたての茶葉からは高貴な香が立ち上るが、トルーファの体に長年染みついた濃厚な香には勝つことは到底できないものだった。
ようやく着替えをし、窓を開けて庭を眺めながらのんびりと過ごす。今日ばかりはいつもの幾重にも巻き上げる衣装やずっしりと重い装飾からは解放されてまるで普通の若者の格好なので、そうなると長い髪だけがアンバランスに際立ってしまっている。
「そう言えば時間を見つけて髪切りを呼ばないとという話でしたね。でしたらこれからよろしいですか」
「ここに呼ぶのか?」
「いえ。恐れながら私が」
「おまえが?髪切りも趣味か?」
「趣味です」
「本当に呆れるな。ならば好きにすればいい」
木陰に椅子を持ち出して白いヴェールをまとい髪をほどいた。
すっかり伸び放題で胸にまでかかるほどだ。米国人であるブロンドの母の血を僅かに受け継ぐ濃茶のしなやかな髪がさくりと切り取られていく。
忙しなく鋏を動かしながらさりげなくマフが聞いてきた。
「再来月は一年に一度、十日の休みを取る月です。どこか旅行をなさるのでしたらそろそろ計画を立てた方がよろしい時期かと」
「知ってるだろう、そのような暇はない」
「静養を兼ねた視察でもよろしいのですよ。アジア方面は今後更に関係を強固に・・・」
「俺をそんなに追いやりたいか?そのまま帰って来なかったらどうする?」
「それはそれで、王のご意志でございます」
「ははっ。できる訳が無いと思っているだろう」
「いえ。もしそれが王のご意志なら」
「ご意志なら?」
「どこまでも、共に参ります」
「は・・・はは・・・はっはっはっ!国を捨てた王に従うか!おまえは本当に変わり者だ!」
「私は王にお仕えしているただの侍従では無く、トルーファ陛下に命を捧げた者でございますから」
「ああ、わかったわかった。そんな奴をくっつけて逃避行などできるわけがない。向うだってお断りだろう。そうやって俺を縛る、本当におまえは策士だな。面白い」
「私は策士でも面白くもありません」
「約束したのだ。その時が来るまでは・・・」
目を閉じて月夜の晩を反芻しているのだろうか。その想いを邪魔しないようにとそっと鋏を梳く。こうして思うだけですら月に一度だけの、この時間しか許されない現実。
「終わりました。鏡をご覧ください」
「うまいじゃないか。何をやらせても卒なくこなすなんて本当に憎らしい男だな。おまえにできないことはないのか?」
「もちろんございますが、しかし陛下に命じられれば不可能も可能にするのが私の仕事、いえ、趣味ですので」
「多趣味で結構なことだ。羨ましいぞ。さて。俺は部屋に戻って読書でもするので本当におまえはもう休め。一日くらい自分で好き勝手に過ごしてみろ」
「好きにしてよろしいのならばお側に侍らせていただきたく存じます」
「そうか。では今日はおまえは俺の友人だ。それなら側にいていい。いいな?」
「・・・分かりました」
これが本当に自分にとって何にも代えがたい貴重な幸せな時間であると、本当に王はわかっているのだろうかとマフはまた少し不本意な気持ちになるがどうしてもこの無表情だけは治すことができない。一度決死の思いで笑ってみたところ顔面麻痺を疑われて医者を呼ばれてしまったという悲惨な逸話もある。だから何でもできるとの賞賛は過大評価なのだ。一番したいことができないのだから。
「陛下、お飲み物なら私がお持ちしますのでどうかお座りになって・・・」
「マフ。ここは俺の家だ。おまえは遊びに来た友人。世話を焼くつもりなら追い出すぞ。ほらそこに外国の雑誌がある。日本のマンガとやらもなかなか面白い。ちょっとはおとなしくくつろいでいろ」
「陛下のお世話ができないなどとそれはなんという拷問。苦しくて血を吐きそうです」
「また真顔でそういうことを。まったく困ったやつだ。ほら、南米でこっそり作らせている俺のオリジナルブレンドの試作品だ。王室御用達のつまらない味のあれよりずっと美味しいぞ。で。苦しんでいるところ悪いのだがちょっといいか。さっきの話だが。旅行はさすがにできないが、でも行ってみたいところはあるんだ」
「はい、どこですか。南米ですか。危険な地は無理ですよ」
「隣国の、少しばかり過激なリベラル派大臣を支援する集会所に。そこのトップと私的に隠密に話をしてみたい」
「なるほど。それはこの上なく危険ですね。公の訪問は不可能でしょう」
「だろう?だから個人旅行だ。できるよな?髪切りよりは簡単な仕事だぞ。手配は任せた」
「・・・どうぞまったく期待せずにお待ちください」
「いや、期待している。楽しいぞ。どうやって行く?おまえなら砂漠も運転できるだろう?」
「私も行くのですか」
「当然だ。どこまでもお供するとさっき言わなかったか?やはり適当な口合わせか?」
「でしたらテロリストの銃撃戦に備えて少しそちらも訓練しておかないとと思っただけです。いささか不安ではありますが鍛錬いたします」
「だから真面目な顔でそういう冗談を言うなと言っているのに!」
そのような本気とも冗談とも、密談とも雑談とも言えない話をしつつ、これもマフが趣味で作ったという洋風の菓子をつまみながら、自由気ままな昼下がりを楽しむ。最近衛星放送の設備も整えたので世界各国の放映番組も見ることができる。
本当は気になる案件は山ほどあるがそれを気にしないで過ごすのが休息日の決まりである。慣れるまではけっこう辛いものであったがようやく最近切り替えのスキルを身につけてきた。
「ところで。今はプライベートで、私は友人ということなので、ざっくばらんにお聞きしますが」
「なんだ。怖いな」
「そろそろ本当にお妃を決定しないといけないのですが、実際陛下はあの候補の中の誰をお選びになるつもりなのでしょうか」
「ぐっ」
「どうせ愛の無い政略結婚でしたら、美しく気立ての良い多産系がよろしいかと」
「ぶっ、おまえ。なにを言いだすんだ。さっきの旅行の話の仕返しか?」
「友人同志、他愛もない話です。しかしそうなると今となってはアマリリス姫との破局が悔やまれますね」
「ま、まあな。せっかく一度は腹を括ったのだからな」
「でももしまだ陛下が姫を想っていらっしゃるなら命に代えてもお探しして」
「あの不思議姫のことなんかまったく想っていないから命は大事にしろ。はあ。そうだな。面倒だが数年越しの式典の予定も立てて行かねばならないのならそろそろ決めるか。後ろ盾がしっかりしていて皇太子が俺のような苦労をしないですむような。あとは裏表のない穏やかな性格で今後増えていく他の王妃やその子どもとも仲良く助け合える懐の広い者。俺の条件はそれだけだ」
「それだけと言われましてもかなりの難条件ですが不可能を可能にするのが私の使命。承知いたしました。でもご安心ください。どのような御方をお迎えになられても休息日は必ず全てを忘れた自由な時間をお約束します。誰も近づけません。王妃であろうと」
「本当か?」
「ええ。命に代えても」
「では俺はこうして月に一度は友人とゆっくりと過ごし、そして年に一度はエキサイティングな旅行ができる自由が保障されているというのだな」
「はい」
「ならば悪く無い・・・」
こうしてゆったりと笑ってくれるのも休息日だけのことである。それを見るのがマフにとっても最高の喜びである。満足気に目を閉じたトルーファの頭が少しだけ傾いた。
「お休みになりますか?」
「いや寝ない。今とても気分が良くて心地いいから、このまま寝たらきっと幸せな夢を見る。それは嫌だ」
有能過ぎる側近は、矛盾するその言葉の意味を理解している。いつかそれが現実になるのであれば夢もまた憩いの一時として楽しめるのだろうけれども。
けっして叶わないのであれば目覚めの苦しみをもたらすものでしかない。
夢も見ないほどに疲れて眠ってしまえるのがいい。悲しいけれどそれが一番いい。
「肩だけ貸してくれ」
「私でよければいくらでも」
「おまえがいてくれて良かった」
「そう言っていただけるのが私の最高の喜びです」
「おまえが妃になればいい」
「私でいいなどとだいぶ望みが小さくなられましたね。王たる者そのようなことではいけません。叶わぬ望みであろうと持ち続けてください。奇跡は起こるやもしれないのです」
「そういう何か別のものの力に任せている暇はない。自分の努力でどうにかなることが優先だ」
なんと答えればいいのかうまい言葉が見つからなくてマフは口をつぐんだ。安い慰めには意味は無い。とにかく自分はその努力を最大限に支えるしかないのだ。
そしていつの日か、奇跡がもたらされますようにと。ただ密やかに心の奥で願うしかない。
それからたわいもない話をして、残りわずかな自由の時を過ごした。
やがて日が落ちて風が少しだけ涼しさを帯び始めた。月が昇り夜の始まりを告げ、静かに日常が戻ってくる。
まず先にいつもの白い衣装に着替えたマフが王の支度を整える。
一枚のシルク、一粒の宝石が身に着く度に現実がのしかかる。
「今宵は英国大使との晩餐でございますので正装にいたします。しばしご辛抱を」
いつもの5人がかりの着付けと比べたらさすがのマフでも倍の時間が掛かる。しかしその時間さえ噛みしめるかのようにゆっくりゆっくりと言葉少なに装飾がなされていく。
迎えの車に乗り込み、入れ替わりで戻ったきた使用人たちが宮殿内に入っていく。
ジャンクフードにコーヒーに雑誌。無造作に置かれた服。さっきまで普通の若者の部屋であった居間は、すぐにまた来月に「王」を迎える為に整えられていくのだ。
開いた車窓からジャスミンの花園を眺めるトルーファの目に月光を受けて飛ぶ美しい蝶が見えた。その横に昔懐かしい影を見た気がした。
「魔人が」
「何か?」
「いや。なんでもない。窓を閉めよ」
もしかしたら魔法も奇跡もありうるのかもしれないけれど。
本当はそれを泣きたい程に願っているのかもしれないけれど。
今は。このささやかなひとときだけで。それで十分なのだ。
閉じた瞼が少しだけ、じりりと熱く痛んだ。
蝶は月に向かいやがて見えなくなった。
end