あの香のひと


あなたを窓辺に飾り、その香に包まれていたい。
花のように、ただ賞賛されて愛でられている生き方が、あなたなら許されるーーー


「花?なぜ花がここに?」

無造作にカップに挿さっている花。一輪だけの。

「通りすがりにもらった」

「そうですか」

珍しいことだと思った。いや、貢物をされるのは珍しくもなんともない。ただそれを受け取り捨てずに家まで持ってきて、このように飾っていることが珍しいのだ。追及しても不快感が増すだけだ。ただの気まぐれ・・・そういうことにしておこう。


翌日。花が増えていた。同じ種類の花だった。

「増えてますよね?」

「貰った」

「誰に貰ったのですか?昨日と同じ人ですか?」

「花屋。別に花屋に花を渡されてもおかしいことは何もないだろう」

「買って来たのならおかしくはないですがただで渡してくるのはおかしいです。一度ならず二度までも。なぜ花屋がこんなにサービスしてくれるのですか?」

「知らん」

そしてまた翌日。更に増える花。

「また貰ったのですか?」

「ああ」

「その花屋はどんな人なんですか」

「若くていい男だからって誰でも彼でも俺が浮気するなんて疑うなよ?」

「若くていい男なんですか。花なんかで気を引こうなんてろくでもないですね。そんなろくでなしに引っかかるなんてあなたらしくもない。捨てましょう」

「最近おまえは性格が悪いな。ろくでもないかどうかは知らないが花に罪は無い」


翌日もその翌日も・・・トータル7本。そこそこ立派な花束だ。そしてここまで束になって香ってくれば花に疎い自分にも分かってきた。これは清劉の香りだ。清劉は欲望を振りまく時に魔性のフェロモンとでも言うべき強い南国の花のような香を放つ。しかし普段は優美で清廉とした微かに周囲に広がる別の香をほのかに漂わせているのだ。この花は普段のふとした動きで周囲に広がる優しい方の香と同じだ。それを意図的に贈っているのであればこれはもう知らぬ振りはできない。

「花屋の場所を教えてください。代金を支払ってきます。調べたらこれは蘭の一種で無料で通行人に配る程安い花ではないようです。もう二度と貰ってこないでください」

「払う必要は無い。金は無いとちゃんと言った。お金は結構ですと言われたんだ」

「花屋に花をめぐんで貰う理由はありません。いえ、あるんでしょうが認めません。そしてあなたはしばらく外出禁止です」

「またか。おまえも諦めが悪いな」

「ええそうですよ。どうせ隙をみて抜け出されてしまうのだとしても!下手すれば壁を破壊されかねないとしても!諦めませんよ!外出禁止!」




聞きだした場所にひとり向かった。海までの道のりにある住宅街の一角の小奇麗な花屋だ。小さな店内には色とりどりの花が溢れている。店員はどこだ。若くていい男?売り物をナンパに使うふとどき者は許すまじ。少しきつめに注意をしておかなければいけない。

「いらっしゃいませ」

声を掛けて来たのは初老の婦人だった。他には店員は・・・いなさそうだ。

「なにかお探しでしょうか?」

「あ、あの・・・いつもの方は」

「いつもの?うちには他には・・・。ああ、息子でしょうか?息子は飾り花担当で店には出ておりませんで、私の休憩の30分だけ店番をしてくれるんですが・・・すみません何か不手際でも」

30分?それを見計らって清劉はここを通っていたのか?なんということだ。向こうだってそんな思わせぶりなアピールをされたら花なんかいくらだって渡したくなるだろう!

「いえ、未払いの代金を支払いに来たのです。カトレア7本分。おいくらでしょうか」

「カトレアですか?あれは売り物ではないですよ。息子が好きな花だものでいつも少しだけ仕入れて店用に飾っているだけなんです。もちろんどうしてもという方がいればお売りしますが未払いというのは何かの間違いではないでしょうかねえ」

「息子さんは何時から店に入るのですか?」

「7時です」

「そうですか。ではまた後で来ます」

よほど怖い顔をしていたのだろうか、怯えた表情で頭を下げて見送る婦人。仕方が無いのだ。あなたの息子が悪い。申し訳ないが清劉に手を出そうとする者には自分は容赦できないのだ。しかし売り物ではない花を趣味でそろえて配るとは、いったい何を考えているのか分からない。怪しい者でないことを祈るばかりだ。



「今日から規則正しい生活を送りましょう。夕飯を7時にしますので食前の散歩は無しにしてください。食後に一緒に行きますので」

「散歩?そんな老人臭い言い方をするな。トレーニングだ。食後にのんびり歩いたって意味がない。だったら俺は夕飯はいらん。規則も食事も嫌いだ」

「トレーニングは日中に健康的にしてきてください」

「おまえにそんなことを指示される筋合いは無い」

「そこまでムキになりますか。何と言われようと花屋は行かせません」

「花屋?言っている意味が分からない。日中だって花屋はやってるだろう?」

・・・あれ?本当に何も分からないという顔をしている。偶然だったのか?清劉は何も知らず偶然その30分の間に花屋の前を通っていただけなのか?

「と、とにかく夕飯時に出掛けるのはだめです。いくらでもお酒を飲んでいいので家にいてください」

「・・・おまえ、何か隠しているな。花屋で何を聞いて来た」

「いやあの・・・そう、あなたが花を貰った方は息子さんでここ数日ちょっと代理をしていただけで本当はお母さんが店をやってるんですよ。だからもうこれから会うことは無いでしょう。元々あなたは花になんか興味は無いのですからもう花屋には行かなくていいでしょう」

嘘ではない。7時に出掛けなければ会うことはないのだ。30分だけ阻止すれば。

「な、なんですか。その目は」

「分かった。でもどうしたんだ、ウィン。なぜそんなくだらないことに心を乱す。ふふん、でも悪く無いな。嫉妬するおまえが愛おしくなった」

「愛おしいってこんなことで、ちょっ、あっ、もうっ」

「縛り上げて監禁しておけ。どこにも行けないように・・・ん・・・」



時計は7時10分前。体に食い込む縄を引き千切り服を身につけた。もっときつく縛れと言っているのに遠慮するからこうして簡単に解けてしまうのに。
ウィンはまるで麻酔銃にでも撃たれたかのように寝込んでいる。昔は本当に常にピリピリと警戒して、抱き合っていても全ての気を許すことも無く最後の一線は保っていたが、今はこうして完全に心を開放しているのだからそれはそれで確かに愛おしい。
出し惜しんでいる訳では無いがまだまだ秘伝の性技はたくさんストックしている。縛られながらも試してみたそのうちの一つが完全に相手の意識を飛ばせるということが分かった。瓢箪から駒の収穫だ。

「いい寝顔だな、ウィン。最高の夢を見させてやってるんだから悪く思うなよ」




いつもの道のいつもの花屋。客の相手をしているのは年老いた女。
母さん七時だよと奥から声が掛かり店員が入れ替わった。
ウィンが時間がどうのと言っていたのはそういうことか。客が去ったタイミングで店先に近寄った。

「いらっしゃいま・・・せ」

驚いている。いつもは向こうから声が掛かり、花を渡され、たいした会話をすることも視線を合わせることも無く立ち去っていたのだから、いきなりこちらから近づけば驚くだろう。それはそうだ。

初めて顔を見た。売り言葉に買い言葉でいい男とウィンに言ったがそれはそこそこ間違っていなかった。若くは無い・・・といっても自分と同じくらいだろうが、それでも商売人ならではの健康的な体の、優しげな見目の良い男だった。

「き、今日はこれからお出かけですか?」

「いや。今日は花を見に来た。買っていきたいが金が無い。だから見るだけだ。いいか?」

「ええどうぞどうぞ。小さな店でたいした品揃えもありませんが色々見ていってください」

そう言われても花のことはよく分らない。一つだけ知っている花があった。あの見渡す限りの庭園のものとは微妙に大きさや色が違うが。でもこの香りは確かにそうだ。大きな月に照らされた何万もの白い花。懐かしい。

「聞いてもいいか?」

「はい。何か」

「なぜおまえは俺に花を渡した?」

「あ。ああ・・・そうですよね。やはりおかしく思われますよね。すみません、ちゃんとお話すれば良かったのですが、覚えていていただけてはいないだろうと・・・でももしかしたら花を見れば思い出してくださるかと。すみません」

「何を言っている」

「あなたは・・・李家の御当主様ですよね」

何かと露出はしていたから庶民であってもかつての自分を知っている者がいるのはおかしいことではない。ただあまりにも不意だったので少したじろいだ。

「とっくにそんなものは捨てた」

「私は出入りの業者の一人としてロビーや廊下、催しの際などに花を飾らせていただいておりました。時折お見掛けしてはおりましたがこちらから必要以上のご挨拶をすることはありませんでした。ただ一度だけ不意にお言葉をいただいたことがありました」



上海の大組織、李家での大きな催しのための飾り花を依頼された。白の昇り竜をイメージした飾りをとのオーダーに応える為、大広間でひとり黙々と作業をしていた背後にいつの間にか人が立っていた。そして声が掛かった。

「この花はなんという名だ」

確かに男声だったのに振り返った先には花と同じ色のチャイナを着た女性が立っていた。いや、細身だが筋肉質でもあるし、背丈も随分あるからやはり男性だ。

「これはカトレアです」

「良い香だな」

一族の方か客人か。そう言うその方こそなんとも言えぬよい香が漂っていた。そう、それはまさしくカトレアの香。なのでなぜ自分の好きな花の名を問われるのかととても不思議な気持ちだった。

「カトレアがお好きなのですね。だからカトレアの香水をお使いなのですね。良い原料を使ったお品ですね。カトレアの良さを活かした、その上本物よりも上品な香がします。どちらの調香ですか?とても腕の良い調香師ですね」

「使っていない」

「え、あの」

「生まれてから一度も、香水など使ったことは無い」

「そうですか、し、失礼いたしました」

その問いには答え飽きたと言わんばかりの不服そうな投げやりな答え方。しがない花屋には分からない世界だ。金持ちは生まれながらにもこんな良い香りを纏えるのか。そしてこの方はなんと綺麗な方なのだろうか。最初に女性と思ってしまった所為なのか、なぜか胸が騒ぎ顔がまともに見られない。


「おまえは花屋か?こういうのが仕事なのか?」

「そうです」

「羨ましい」

「あ・・・え?そ、そんなことは」

「俺もいっそのこと、ただこうしていたい。ただ綺麗でいるために生きていればいいのだろう。羨ましい」

そう言って花を見つめる目。羨ましいと言ったのは自分に対してではなく花にだったのだ。羞恥で顔が燃えるがそんなことは何も気にしていないようにじっと花を見つめ続けている。とても疲れた横顔。

「あなたなら」

「ん?」

「い、いえ、なんでもありません」

訝しげに眉根を寄せると、また向き直ってカトレアを見た。疲れてはいても、花々が霞むほどの本当に綺麗な横顔だった。

不意に誰かが呼ぶ声が聞こえ、カトレアの香の人は小さく溜息をつくと足早に出て行ってしまった。どこに控えていたのだろうか、すっと付き人が寄り添ったところを見ると相当地位のある方だったのだろう。

ふと我に返るとその残り香が飾ったカトレアと相まってなんとも言えない心地よい空間を作りあげていた。ぽつぽつと会場を訪れる人々は誰もが一瞬溜息をついて動きを止めた。催しの目的にもよるが花はあくまでも引き立て役。いつもは香りが出過ぎないように気をつけているし今回のカトレアも控え目な香の種を選んだというのに、まるでさっきのあの方に同調するがごとく全ての花弁が香を放ち、しかしそれが不思議なことにとても良い作用をもたらしていた。

「これはあなたがアレンジしたの?素晴らしいわ、これはまさに白竜の御方。香りも同じだわ。ねえ、うちにもこの飾り花をお願いできないこと?」

「うちも頼みたいわ。これを寝室に飾ったらまるであの方と一緒にいるような気持ちになれるじゃないの」

「おお、確かにそうだ。我が家にも頼む」

「この香りの香水はヨーロッパ中どこを探しても無かったんだ。本人に聞いても何もつけていないと言い張るしな。いやあこれだよこれ、うん。家中に大量に飾ってくれ」


戸惑っている間にセレブなお客様からの注文が山になってしまった。まさか思いもかけない仕事だった。そういった方々との付き合いの中で、ようやくあの時のカトレアの香の方が白竜神と呼ばれる李家の御当主様であったと知ったのだった。
ただ、彼の香をとの客人の要望に自分は完璧に応えることができずにいた。人の記憶は不確かなもので、ある程度の強い香を出すようなカトレアのアレンジメントで客は満足してくれて大金を支払ってくれた。でもあの空間の再現は自分には二度とできなかった。違う。これではない。古い店を建て直すほどの儲けはあったけれど空しい仕事だった。

結局その仕事は徐々に断っていくことになったが李家での仕事だけは長く続けさせていただいた。またお会いしたいと、話がしたいと、そういった下心があったのは否めなかった。

しかし運よくお見掛けできたところで一介の業者が企業のトップに声を掛けることなどできず、また掛けて頂くこともなくその後は存在すら意識されることは無かった。やがて李家との契約が終了し、その後はもう会える望みはなくなったのだった。

まさかの再会はまったく思いもよらない場所だった。
母一人子一人の商売人の家を継ぐために、母は何度も自分に見合いを進めてきたがどうしてもその気になれず、それはもしかしたら自分の性癖が通常のものでは無い所為かと悩み、思いきってその手の店に行ってみた時だった。

それ程品の無い類の店だとは思わなかったのに、運が悪いというのだろうか、なぜか喧嘩のような騒然とした騒ぎが起こっていてドアをくぐることもできず引き返すしかなかった。出ばなをくじかれるとは正にこのことだ。自分の人生はどうもこんな風にいつもすんなりといかないのだ。

仕方無く少し離れた古い普通の酒屋に入った。暫くそこで一人酒を飲んでいると、ふっとあの懐かしい香が漂ったのだ。

驚いた。あの香の人だった。こんな場末の古い店には似つかわしくない人なのに。常連なのか、まっすぐにカウンターに座り、店主は黙っていつも飲んでいるものであろう酒を差し出した。

「また喧嘩か」

「耳が早いな。さすがはこの界隈の御長老様だ」

「ストレスが溜まる生活も分かるがそれを自分勝手に憂さ晴らしするのはいい加減にしてくれ。警察が徘徊するようになったら落ち着いて商売ができねえよ」

「勝手にまとわりついて来て、勝手に怒り出したからちょっと手を払っただけだ」

「あんな店に出入りしなくてもおまえならいくらでも高尚なお相手がいるだろう。相手に不自由しているわけでもないだろうに」

「いくらでもいるわけではないが不自由はしていない」

「だったらやっぱり喧嘩自体が目的なのか?おまえに敵う者はいないと言っているだろう。死人を出したいのか」

「いや逆だ。俺を殺してくれる相手を探しているだけだ」

真っ白な花。ゆらりと漂う香。
その美しい花を、踏み散らすことはさせない。
大事に摘み取り胸に抱えて持ち帰り、窓辺のテーブルの上でクリスタルの花器に飾りたい。その香に包まれていたい。
花のように、ただ賞賛されて愛でられている生き方が、あなたなら許される。私はあなたを・・・

店主が他の客の相手をしに行ってしまったので彼は渡されたボトルを一人で開けていた。意を決して話し掛けようとしたほんの瞬間に、一気にグラスを開け紙幣を放り店を出て行ってしまった。慌てて自分も会計し後を追ったが路上に出た瞬間足が止まった。高貴な花には守人がいて、追ってきた自分に冷たい視線を投げた。それは死の恐怖を感じさせる恐ろしいオーラだった。しかしどう見てもただの一般人だと瞬時に理解したのか、そのボディガードはさっさと自分から視線を外し主人の後に寄り添った。月が照らす二人の影はずっと同じ距離を保ったまま遠く見えなくなっていった。

そしてそれからはもうその界隈で出会うことは無かった。いや、もし会えたとしてもあのボディガードが自分など寄せ付けないだろう。
二度と出会えないだろうと諦め、自分のためだけに仕入れる花を眺め愛おしむのが唯一の癒しになった。そうして寂しく自分の一生は終わるのだと思っていた。つい先日、まさか自分の店先を毎夜同じ時刻に闊歩するその姿を見とめ、そしてあの香を感じるまでは。



「そんなことがあったのか。あのころのことはほとんど記憶に無い。ただ早く死にたかった。それだけが頭を支配していて花も人も見えなかった」

「お忙しそうでしたものね。今はどうされているのですか?すみません、上層の経済界とかそういった世界には本当に疎いもので今は誰が御当主なのかも」

「俺の代で終わらせた。もうあそこは何もない」

「そうだったのですか。いえ、でも今はきっともっとやりがいのあるお仕事をされているのでしょうね。お顔がとても穏やかですから」

「飼われているだけだ」

「え?」

にやりと笑うと首元を開いて見せた。自分には貴金属のことなどよく分からないが何か高そうなアクセサリーだ。

「首輪をつけられてひたすら愛玩されるのが仕事。でもそれは穏やかで幸せだ。死にたいとは思わない」

「首輪・・・そ、そうですか」

冗談はさておき、安心した。そうだったのか。よかった。ずっとあの酒屋での言葉が気になっていたのだ。ようやく窓辺の花のように愛される人生を手に入れられたのですね。
誰もがあなたを愛でる。胸に飾りたいと願う。でも手折ることができるのはきっとただひとり。それは・・・。安心と同時に訪れる切ない気持ち。

「花屋。なぜ薔薇ではなくこの花だった?」

「え?」

「人からはなぜかいつも薔薇を貰うのだがそれ以外を選んだのはおまえが初めてだ」

「ああ、そうですね。確かに何かに例えろと言われれば真紅の薔薇ですが、でもあなたは薔薇ではない。そう思うのはあの頃のふとした時の疲れた顔を思い出すからでしょうか。本当はきっと繊細で人前で堂々と咲き誇る薔薇ではない」

「ふうん?」

じっと凝視されると胸が高鳴る。あの時と同じ美しい姿。本当に花の精のように、時間の流れを感じさせない不思議さ。首元でさっきのアクセサリーがきらりと揺れる。思わず目を逸らし、心を落ち着けるように花に向かった。

手際よくまとめられていく花束。白の。優しい花たち。

「カトレアと、そしてこちらはスイートピーと、茉莉花。香りが混ざって本当は良くないのでしょうがこの絶妙なブレンドがあなたのイメージです」

「・・・」

「あの・・・お気に召しませんか」

「なぜ茉莉花を?」

「さっきあなたがこの花を見ていたので、お好きなのかと思ったのですが」

「ああ、好きだ。憧れている。この花は俺の花ではないが確かにきっと俺の一部なのだとは思う。これが俺か。どう思う?」

「薔薇にも決して引けをとらぬほどに、とても綺麗です。私はこの花束に値は付けられません」

「陳腐なだけのそんな言葉が素直に胸に入るなんて花屋というのはすごいな。今まで色々な者に会った。まるで魔法を使うかのような人外な者にも。でもこうしたところにも魔術師はいるのか。世界は広い。面白い」

「そ、そうですか。そんな大層なものではありませんがでもそう言っていただけるなら花が好きで細々とやっているこんな暮らしも報われます」

花を挟んで笑った。笑うたびに香が広がった。それはまるで麻薬のように、気持ちを高める香。やがて距離が近くなり顔が寄せられた。

それは濃厚な香に変わった。カトレアではない。花のプロの自分も知らない、どこか遠い国の花。甘く、深く、毒でその理性を奪う。そしてその蜜はこの世の物とも思えぬ甘さ。桃源郷の桃花の如き。天と地とを行き来する、不思議な感覚。

蜜を吸っているのか吸われているのか。きっと食虫植物に捕えられたものはこうした恍惚の中で溶けていくのだろう。甘い。狂いそうな程に甘い。自分を見ろと、その手で触れろと主張する。手折られる気もないのに・・・




暫しの幻想は不意のアラーム音に引き裂かれた。交代の時間を告げるものだった。顔が離された。

「す、すみません、どうしてこんな、どうかしてしてしまって」

「花の魔力だな。花に罪は無い。気にすることは無い」

「そ・・・そうなんでしょうか。でも」

「嫌だったのなら悪かった」

「まさか!だって私はずっと!」

ガタンと店先から何かが倒れる音がして慌ててそちらを見ると黒い人影があった。

「こんばんは。ちょっとよろしいですか」

声が掛かった。お客様?いけない、早く応対を。

「はっ、あっ、い、いらっしゃいませ!」

「お仕事中に家の者がお邪魔いたしました。お詫びと、そして未払いの花の代金を支払います」

「邪魔をしているのはおまえだ。騒々しい」

「呆れましたよ。あんなに言ったのにあなたは来たのですね」

「呆れるもなにも、おまえは気持ち良く寝ていたじゃないか」

「あれほど・・・人を気絶させるほどの本気を出してまでここに来たかったのですか?!ああご主人、すみません。この花束も『買った』のですか?では合わせてお支払いいたします。おつりは結構。そして今後はどうぞこのようなお気遣いはなさらないように。ではこれで」

「いやあの代金なんてそんな、それにこんな大金を」

「取っておけ。花の魔法の代償だ」

「帰りますよ!」




本当に猫のように捕まえられて帰って行ってしまった。
あの冷たい視線。覚えている。あの人はあの時のボディガードだ。でも今は二人の影はしっかりと重なっている。そして文句を言いつつも嬉しそうに手折られて抱えられていく美しい花。そうか。そうなのか。

力なく椅子にもたれていると母親がやって来た。

「お待たせ。遅くなってしまって悪かったね。交代しようか。なんだかいい匂いだね。こんな花がうちにあったかい?うん?どうしたんだい頭を抱えて。具合でも悪いのかい?」

「いや。すごくいい気分だよ」

「何を言ってるんだい。そうそう、さっき言ってたお客様は来たのかい?カトレアをお買い上げくださったとかいう」

「ああ、来たよ。店中のカトレアを花束にしてお渡しした。はい、売上」

「まあこんなに。上客様だったのだね。じゃあ明日からはもっと仕入れておいたらどうだい」

「いやもういい。もうあの花は置かない。カトレアは飾れても、あの花は知らない。あの香の花はきっと自分には手折れない遠い世界のものだ。ははは、元々俺なんかには似合わなかったんだ。俺は花に首輪をつけられない」

「おまえいったいどうしたんだい。大丈夫かい?少し休みなさい」


夕刻の風が涼しく店先の花弁を揺らす。嘘ではなく本当に気分が良いのはまだ花の、いや、あの人の魔法が続いているからか。あの香に恋した果てない恋心は叶う隙もなく終わってしまったけれど、幸せな気持ちだけが淡く残って甘く唇から沁み渡る。

あの花束が、今宵二人をさらに幸せにしますようにと、そう願いながら、一輪だけ未練がましく残したカトレアにそっと触れた。


ただ眺めているだけで、幸せになれた、私だけの花。
そっと花弁を千切り唇に食む。
明日からは、心の中だけに。いつまでも私だけの香を。





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 (2014/09)
 

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