The Gate of Hell
今自分はもっとも関わり合いたくない相手と仕事をしている。
仕方が無いのだ。個人的には大嫌いで、いや大嫌いなんて可愛いものではなく顔も見たくないし一生関わり合いたくもないし本当に迷わず標的にしてやりたいほど嫌な相手なのだが、仕事のパートナーと割り切ればこれほどやりやすく頼りになる人物はいないのだ。
 
『さてと。じゃあ今言った分の作業は明日には終わらせろ。そしたら俺がチェックする余裕もある』
 
「え、明日・・・」
 
『できない?あああ、すまない!ついつい自分の感覚でものを言ってしまったよ!そうだな、低能馬鹿のおまえには無理だ、うん。ゆっくりやれ。一週間もかければおまえでもできるだろう。デバッグは自分でやれよ?』
 
「明日までにできます。やりますから」
 
『はっ』
 
鼻で笑われた。本当にいちいちむかつく。でもやるしかない。この程度のプログラミングは一両日中にできるようにしておかなくてはいけないのは分かってる。それに悔しいがそれで仁の重箱の隅を突くようなダメ出しチェックを入れてもらえればそれは確実に今後のスキルアップにも繋がるのだ。
 
『やる気は結構だがミスは困る。ま、おまえは追い立てられないと本気を出さない奴だからケツが決まってる方がいいだろう。ところで』
 
「はい?」
 
『最近そっちの海軍データに怪しい動きはないか?』
 
「いえ?別に」
 
『そうか。やはりガセか。あそこのチェックは隙無しだし最適な足場も無い。いくらなんでもリスキーだ』
 
「何を言ってるんですか。教えてください」
 
『いくらで?』
 
「けちくさい人ですね。犯罪で荒稼ぎしてるくせに」
 
『俺は請負殺人なんかで大金を貰ったことはないぞ』
 
「もう結構。話が終わったのなら切ります」
 
やはりだめだ。本当に嫌だ。もしもう一度手合せする機会があるのなら、今度こそその口が二度と開かないほどに打ちのめしてやりたい。半ば強制的に通信を解除し、追い立てられて期限を切られた恐ろしい難題に取り掛かった。
 
 
仁との仕事はそんな感じの常軌を逸したノルマで超人的なスピードで進んでいくので、ふと気づくとかなりの時間が流れていることがある。
幸か不幸か我が愛する同居人は勝手気ままに一人で行動することをむしろ好む人なので放ったらかしを責められることは無いが、その間恐らく食事は酒だけで服も着ないで非人間的な暮らしをしているに違いないのだ。それは良くない。
一息ついている今のうちに食事をとらせようと名を呼び全ての部屋を探したけれど、どうしたことだろうか。気配が無かった。
珍しいことに外出しているようだ。ずっと家猫のような生活を好んでしていたのに、ついに飽きたのだろうか。
 
かつては一人歩きが許されない立場の人だった。自分がボディガードをしていた時代もある。しかしそんなものはまったく不要であった。
むしろ彼自身が大国の皇太子のSPに雇われ、身を呈して暴漢から主人を守り抜くという大役を果たしたほどなのだ。だから一人歩きをすること自体にはさほどの危険性は無い。
 
ただ心配なのは無自覚にばらまく妖艶なフェロモンと、そしてなぜか信じられないような大物と接触をもってしまうという引きの良さなのだ。
それに加えて彼の倫理観の特殊さだ。
キスは酒を飲むのと同様の感覚らしいしたぶんセックスもちょっとしたエクササイズ程度にしか考えていないのだ。
自分に出会ってからは他の者と関係は持っていないと言うがそれはただ単に自分との相性が一番いいからという理由だけである。恋人だからとかそういう気持ちはまったく持っていないと思う。
 
・・・勘繰り始めたらキリが無い。
連絡をとる手段も無い以上、こうしてただ黙って帰りを待つしかない。
仕事にかまけていた自分が悪いのだが、こうなることを予測して仁が仕組んでいたのではないかと思うと怒りがふつふつと込み上げてくる。まさかまたイギリスに行ったなんてことはないとは思うけれど・・・それともアラブに。いや、北欧にも行きたがっていた。
奔放で気ままな恋人の動向が全く探れずに頭を抱え、鍵付きアクセサリーにGPSを仕込んでおかなかったことを本気で後悔するのだった。
 
 
 
 
最近ウィンは憑りつかれたように仕事をしている。チェンが煽っているらしいが何の仕事をしているのかは知らない。聞く程興味も無い。
うるさく世話を焼かれないのは静かで大変良いのだが、困るのは手合せの相手がいないことだ。型稽古にも限界がある。相手がいなくては勘が鈍る。
 
外に出れば誰かしら喧嘩を吹っかけてきてくれるだろうかなどと僅かな期待をしてみた。しかし最近は治安が良くなったのかなんなのか、淫らな誘いは多々あるものの因縁をつけてくれる者はいない。
仕方なく海辺の方まで足を延ばしてみた。この辺は運動をしている者が多いのだ。
ほとんどが太極拳だがたまにカンフーの型稽古をしている者もいないことはない。しかし残念ながら自分の相手にはならなさそうな初心者かただの映画かぶれのニセモノばかりだ。
半ば自棄になって走ってみることにした。とにかく走る。足を痛めてから前のようには走れないがそれでもこうして毎日走っていれば走らないよりは鍛えられる。
 
砂浜を何十往復かしたあと、テトラポットに腰掛けて出始めの星を眺めてクールダウンする。水平線には定期的に運航されているらしい豪華客船の華やかな灯りがゆっくりと動いている。最近はこれが日課になっている。できればここで酒を煽れれば最高なのだが。ここ近辺に酒屋が無いのが残念だ。
 
「きゅうん」
 
犬の声が聞こえた。最近よく会う犬だ。俺は別に動物など好きではないがこの犬は賢そうなので近づいて来たときは一応頭を撫でてやることにしている。
 
「こんばんは」
 
犬の飼い主は感じのよい外国人だ。少し訛のある英語で話し掛けてくる。二言三言当たり障りのない会話をして、うっとおしくならない程度のタイミングで去って行く。こういう付き合いなら別に拒絶することもない。見た目もなかなか悪くはないのが良い。
 
大きな黒い犬の逞しい背を見ていたら急に人恋しくなった。さすがにそろそろ一人寝も寂しい。さて。では働き者のうちの犬を撫でに帰るか。海辺を走っているなんて話は絶対に信じてもらえないだろうから、先手を打って服に砂をたっぷりつけていこう。
 
 
「これは」
 
「言っただろう、海で走っていた。海の砂だ」
 
「どうして背中だけにこんなについているんですか?浜辺で何をしてきたんですか?寝転ばないとこんなことにはなりませんよね?」
 
「おまえが疑うと思ったから帰りがけにわざわざ背回転をしてつけてきたんだ」
 
「嘘でしょう」
 
「は?これほどまで確かな証拠を疑うならでは俺はどうすれば良かった?海をバックに自分撮りでもしてくればいいのか?馬鹿らしい。風呂に入る」
 
「どうして」
 
「どうしてって汗をかいたし砂もついているから」
 
「怪しい」
 
「おまえは仕事のしすぎでおかしくなってるようだな。そんなに疑うなら身体検査でもなんでもしろ。ほら!」
 
「ちょっ!こんなところで!あ・・・いやでもそんな色気のない誘い方は嫌です。分かりました、お風呂に行ってください」
 
 
引き裂くように脱ぎ捨てられた、いや実際いくらか引き裂かれてしまったせっかくの高級一品物の、海砂の零れる服を拾った。嘘はついていないとは思うがどこまで信じていいのか分からない。清劉は優しいから。自分を傷つけないための嘘ならつく人だと思う。王子のことだってそうだ。何もなかったと言うがそんなはずはない。
今こうして一緒にいて、どこにいても自分の元に帰って来てくれて、そしておまえだけだと言ってくれる。それを信じてさえいれば幸せにいられるはずなのに。自分はどうしてこうも嫉妬深い人間なのだろうか。
仁が憎くてたまらないのはあいつはこうした嫉妬を乗り越えて達観していて、その穏やかな領域にいるのが羨ましくて、そこに自分がどうしても届かないというもどかしさもあることは理解している。
 
 
その夜数日振りにベッドの中で抱き締め隅々まで探った体は確かに自分だけのものだった。
結局こうして取り越し苦労を認めることになるのに。それでも嫉妬の波は絶えることなく胸に押し寄せてくるのだった。
 
 
 
 
「こんばんは」
 
「わうん」
 
「ああおまえか。よしよし。今日の散歩はずいぶんと遅いんだな」
 
「すみません、嬉しくて駆け寄ってしまいましたね。最近仕事が忙しくて散歩はこの時間になってしまいます」
 
「犬は大変だな。忙しくても毎日散歩させるのか」
 
「よい息抜きになります。動物は皆かわいい。猫はなかなか懐いてくれないけれど犬はどこの国の子もよく懐いてくれる」
 
夕刻の薄暗闇の中でも光る金髪。頑丈そうな体は一般人のものには見えないのだがその手の部類特有の怪しい匂いはまったくしない。異国の地で犬を連れて、いったいどんな仕事をしているのだろうか。中国語は話せないようだからここに長く住んでいるわけではなさそうなのだが。ホテル滞在のエグゼクティブなのだろうか。どこの国でもと言うからには世界をまたに掛けている?
さっぱり分からない。こうして関心を持てば持つほどに謎が深まる。
 
「少しリードを外して犬を走らせてもいいですか?」
 
「ああ別に俺は気にしない」
 
飼い主は爽やかに笑顔をこぼして犬のリードを外した。犬は嬉しそうに足元を旋回した後、波打ち際に駆け出して行った。
 
飼い主が隣に腰を降ろしたが別になにを会話する訳でもなくゆっくりと犬を眺めながら時間が流れた。遠くで豪華客船の灯りが見え始めた。もうこの時間か。そろそろ帰るか。
 
挨拶を交わして帰途についた。飼い主は本当に自分に性的な興味は持っていないようで背中に視線を投げることもなく犬の名を呼びそっちへと向かってしまった。
自分で言うのもなんだがこんなのは初めてで逆に気になってしまい波打ち際を振り返った。楽しそうに戯れる飼い主と犬。視線に気づいたのか偶然か、こっちに目を向けると手を振ってきたので慌ててその場を去った。
 
 
 
「今日は砂がついていない」
 
「ついていてもついていなくても結局疑われるのだったら背回転なんて面倒なことはしなかっただけだ」
 
「毛?」
 
「犬の毛だ。浜辺によく来ている。今日は自由にさせてもらって嬉しかったのだろう、飛びつかれてだいぶすり寄られた。おい、まさか犬にまで嫉妬するなよ?」
 
「さすがにそこまで狭心ではありませんが、自由にと言うからには野良犬ではないですね?飼い主がいたんじゃないですか?どんな人ですか?」
 
「おまえは本当に・・・。顔はあまりよく覚えていない。普通の男だ」
 
「男!?」
 
「人間は男か女かどちらかだ。そんなに驚かなくてもいいだろう」
 
確かにその通りなのだが。これはでもちょっと嫌な感じだ。ああどうしてこんな時に限って仕事が立て込んでいるのだ。一刻も早く片付けて自分もランニングに同伴しよう。取り返しのつかないことになる前に。
 
「その人はどんな人なのですか。気をつけて下さいよ」
 
「どんな人なのかなんて知らない。ただ犬を連れて歩いてるだけの一般人だ。顔だってよく見たことはないし」
 
「とにかくあなたは外に出ればトラブルを拾ってくる人なんですから注意するに越したことはないんです。今度一緒に行きますから。それまでは絶対に必要以上の交流を持たないように」
 
人の忠告をうっとおしそうに聞き流している。どう思われようと用心を重ねるに越したことはないのだ。だいたい動物だって好きでもなかったくせになぜ犬を撫でたりするのか。結局優しい素直な心根に付け込まれてしまうのだからこんな純粋な人はやはり自分のように少しひねくれた者が側でうるさく言ってやらないといけないのだ。うん。
 
 
海辺には他にも犬を散歩させている者が多く行き交う。彼はそれらの人々とも気軽に挨拶をしているのだから別に自分だけが過剰に意識をする必要はない。
 
なのにウィンが変なことを言うから。かえって意識してしまうではないか。
初めて彼の顔をまじまじと見つめてみた。こういうことをすると過去の経験ではあまり良い結果にはならないのだが性的な匂いを持たない淡泊の権化のようなこの男なら大丈夫だろう。
 
見た目の美しさには価値は感じない。人の顔を見て驚くのは滅多にないことだ。しかしこれは。驚いた。
まるで作り物のような完璧な造作だ。女にはもちろん男にももてるタイプの魅力ある顔だからきっと相手に不自由のない生活を送っているのだろう。だからギラギラした欲望を持ち合わせていないのか。なるほどと少し納得する。
 
年はいくつなのだろうか。自分よりは下だと思うが。視線を落としてみるとこれは思っていた以上の筋肉体だった。この体ははっきり言って好みだ。確かにこれは魅力的だ。もっと見てみたい。あわよくば・・・
 
・・・いつも自分がされているような品定めをしてしまっていることに気づき慌てて視線を戻した。自分の視線を受けても爽やかに微笑むだけでまったくおかしな雰囲気になる気配はない。これは聖人か?まさか聖職者なのか?
 
「おたくの犬は元気ですか?」
 
「?うちは犬は飼っていないが」
 
「そうでしたか。仕事が忙しくてこうして会話をするのは愛犬仲間くらいなので勘違いをしてしまいました、忘れてください」
 
「どんな仕事を?」
 
ついに聞いてしまった。自分が他人にこんなに興味を持つなんてありえない。言ったとたんに後悔したがもう遅い。後悔以上の好奇心が溢れて止まらない。
 
「知りたいのか?」
 
声音が変わった気がした。初めて視線が合った。翡翠の色の瞳。それも作り物のように一点の霞もない完璧な宝玉の輝き。人間では無い?まさか。いやでもこれは。作り物だ。本物の翡翠?義眼?逸らそうとしても吸いつけられたように視線が・・・離せない。
 
 
危険を察し反射的に体を動かそうとしたが瞬時に封じられた。目の前に鼠の顔が迫って来たのだ。恐怖を感じる前に意識が遠く放り投げられ、まるで宇宙まで飛んだかのような感覚に陥っていた。
 
 
ゆらゆらと無重力の空間を漂った。それは永遠の時間のような気さえした。おかしいのはこんな不可思議な状況であるのになんとも心が穏やかであることだ。あたたかい恋人の腕の中のような。いやそれ以前の、母の胎内のような。もっと前の太古の海の中のような・・・
 
しかしその感覚はは突然の重力に引き裂かれた。ぎゅっと引かれるように現実に戻り、高速で頭が鮮明になった。
 
そして気づいた時には首の前に指があった。締められる?!誰に?なぜ?
 
「おまえは誰だ!」
 
そう叫んだ、いや叫んだつもりになっていただけかもしれない。目の前が真っ赤に染まった。血の色・・・
 
「驚いていただけましたか?私は見ての通り、ただのしがない奇術師です」
 
平然とした声が真っ赤な薔薇の花束の向こうからのんびり聞こえてきた。さっきまでの海辺だった。波の音が何事も無かったかのように繰り返され、犬が側でのん気に鼻を鳴らした。
 
「どうぞ。差し上げましょう。そしてこちらの首輪はおたくのわんちゃんに」
 
「犬は・・・いないと言っている・・・おまえ・・・なにを・・・」
 
「そうでしたか。すみません、物覚えが悪くて」
 
何が起こったのか分からなかった。声がうまく出ない。奇術?あの幻も気迫も全てが?あの永遠のような時間はなんだったんだ?人の所業ではない。これは神か悪魔の・・・
 
どこからか現れた薔薇は濃厚な香りを放っていて、それを束ねている黒い首輪は外そうとしたが外れなかった。気持ちが悪くて薔薇ごと突き返そうと前を向いた時にはもう怪しい自称奇術師は犬の方に走って行ってしまって、それからまったくこちらのことなど忘れたかのように波打ち際で楽しそうに戯れ続けていたので、仕方なくそれを抱えてなんとも言えない不可解な気持ちのままに家路についたのだった。
 
 
「それは?」
 
「もらった」
 
「誰に」
 
「奇術師」
 
「は?」
 
「俺もなんだかよく分らない。奇術というよりも幻術にかけられたような」
 
「はい?ふん、見事な薔薇じゃないですか。で、この首輪はなんですか?」
 
「外そうとしたが外れない。切って捨ててしまえばいい。風呂に入ってくる。疲れた」
 
なぜか憔悴しきった顔で清劉はバスルームに行ってしまった。何がなんだか分からないが本当に疲れているようなので詳細は落ち着いてから聞こうと思い、薔薇を生けるために首輪を切ろうとしたが、外れないと言っていたそれは簡単にするりと手の中に落ちてきた。
 
!?
 
首輪の裏に刻まれた文字を見て驚愕した。これは!?
 
名を呼ぼうとして言葉を飲み込んだ。言えない。いや確信は無いのだが。なぜここにいる?何が狙いだ?
 
だめだ、落ち着こう。まだ何も起こっていない。大丈夫だ。まずは自分が落ち着くのだ。そして何か仕掛けてくるようならなんとしてでも守る。落ち着け、落ち着け。
 
深呼吸をしてテレビのスイッチを入れた。ドキュメント番組の美しい映像と音楽が突然の緊急速報に遮られた。それは上海沖で豪華客船が銃撃され、休暇中だった亡国首脳が死亡したという大ニュースだった。
 
「なんだ?ん?銃撃?この船は」
 
バスルームから戻って濡れ髪のままで清劉が画面に見入っている。顔色が変わっていくのが分かる。
 
「さっきまで奇術師とここにいた」
 
「その奇術師はどんな男でしたか」
 
「この間話した犬の飼い主だ。金髪で翡翠の瞳の。あいつがこれを?いや」
 
「どうしてそう思うのですか?だって一般人だって言いましたよね?何か思い当たることが?」
 
「薬が効かない俺にどうやってあんな幻像を見せたのか分からない。いやあれが幻像だということすら未だに信じられない。何か人を逸した異世界の者のような気がした。そして一瞬だけだったが・・・うまく説明もできないが、でも未だかつて感じたことのない殺気を感じた。俺に対してなんらおかしな感情を持たずに感じのいいやつだと思っていたが裏を返せばそれは全ての感情を意図的に封じていたとも言える。あれは生き物の目では無かった。まるで翡翠が埋め込まれたような、瞳孔が開いたままの・・・」
 
声が震えている。常に自信に溢れているこの人のこんなに怯えている姿を見るのは初めてかもしれない。
 
ええそうですよ、あなた程の人を得体のしれない恐怖で怯えさせることができる、そんなことができる悪魔はこの世でただひとり。彼がMADHATTER、です
 
という言葉は飲みこんだ。代わりに強く抱きしめた。そのまま未知の感覚に怯える清劉の体を包み込んで眠りにつかせた。いつもと同じであるはずなのに、今日はやけに夜の闇が黒く深く感じて気味が悪くて仕方が無かった。
 
 
 
翌日ウィンと一緒に海辺に行ってみたが警察のロープが張られて近づくことができなかった。ウィンはその後より一層神経質になってしまって自分が同伴しない外出は禁止とまで言ってきた。子どもじゃないのだからと何度か目を盗んで抜け出し、海にも行ってみたがもうあの犬好きの奇術師には会うことはなかった。
本当にあれが犯人なのか。だとしたら誰なのか。あれだけ離れた船の中の目標を撃ち抜くなんてそんな芸当ができるのは・・・
 
多分自分は気づいている。ウィンも。
 
以前電話で話した声とは違った。それにあの関わり方は本当に動物好きな人間にしかできないほどのものだった。あれが演技だとは思えない。動物愛護の暗殺者?そんなのは変だろう。人間だって動物だ。
いやでも・・・分からない。本当に分からない。思い出すだけで背筋が震える。確かめるべきなのか?それとも忘れるべきなのか?
 
なぜか1月経っても枯れない薔薇。その後遺伝子組み換えの特殊加工で3か月枯れない薔薇なるものが市場に出始めた。その開発者を調べてみたが北欧の方に研究所を持つ会社だということしか分からなかった。そう言えば首輪は?
 
 
 
首輪はどうしたのかと清劉に聞かれたので平然と捨てたと答えたが信じてくれているだろうか。あの時急いで引き出しに押し込んでそのままだった。本当に捨ててしまおうと開けた引き出しから鼠が飛び出してきた。
 
「うわ!」
 
「どうした?」
 
「いやあの、来ない方がいい!鼠が!」
 
ドアの前で固まる清劉。遅かった。鼠は清劉の足許に走り寄りそして見上げた。
 
「・・・かわいいな」
 
「え!?今なんと?」
 
「大丈夫のようだ。いつの間に俺は鼠を克服したんだ?」
 
「こっちが・・・聞きたいです」
 
鼠はそのままどこかに走り去ってしまった。清劉もリビングに戻って行った。
あまりのことに何をしようとしていたのか忘れて茫然としてしまった。
はっと思い出して引き出しを掻きまわしてみたがあの首輪はまるで鼠に化けてしまったとでも言うかのように二度と見つかることは無かった。
 
自分のあんな強烈なトラウマを取り払ったのだ。鼠嫌いを治してしまうくらいなんでもないのだろう。しかしどうやって。第一なぜ清劉の苦手なものを知っていた。
 
 
 
 
≪鼠が嫌いな猫なんておかしいだろう?これで俺もおまえの猫に遊んでもらえるかな?≫
 
 
 
 
首輪に刻まれた文字が閉じた瞼の裏に滲み出てくる。
カタカタと窓枠を鳴らす風が笑い声のように一晩中鳴り響いていた。
 
 
end
 

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(2013/5)




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